かぐや姫の物語
今は昔竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつつ、よろづのことに使ひけり。
岩絵具で描かれたような淡い色彩の中に『竹取物語』の冒頭文がそのまま流れ込み、空間ごと平安初期へと溶け入る。
そこは、自然と共鳴して生きる狩猟や農耕で成り立つ社会に住む人と、その他人の営みに依存しながら違う価値観の中で都で暮らす人々が分岐し始めた、いわば資本主義社会の萌芽のような世界である。
『竹取物語』では、姫は翁に見出された「三寸ばかりなる」「いとうつくし」い様子のまま、「妻の嫗にあづけ」られ、「いと幼ければ籠に入れて養」われる。
しかし、この映画では、普通の赤ん坊に姿を変え、桃を食べて若返った桃太郎のおばあさんよろしく、媼の乳によって育てられる。
育児の過程も原作では、「三月ばかりになる程に、よきほどなる人になり」「髪上などさだして、髪上せさせ裳着す」ることになるし、「帳の内よりも出さず、いつきかしづき養ふ」という箱入り娘ぶりだが、映画では、おしりも丸出しのまま近所のこどもと野原を駆け回りながらのびのびと育つ。「たけのこ」と呼ばれるほど周りの子どもとは成長の早さが違うが、髪上げをするまでには原作の約三倍の時間がかかっている。
約19000字の『竹取物語』の中で、髪上げの儀式までの描写は約560字。約2%に過ぎない。しかし、映画では、ここまでに約半分の時間を割く。この「育ち」の描写が、テーマと深く関わってくるからである。
映画の中のかぐや姫は、髪上げの儀式に際し、眉を抜きお歯黒をすることに対して「汗が目に入ってしまうし、口を開けて笑ったら変だ」と抵抗を示す。もちろん原作にはないエピソードだ。かぐや姫が拒絶を示すその理由はただひとつ「人として生きていくのに不自然なことを強要されるのは嫌だ」からである。しかし、教育係の相模は「高貴な姫君は汗などかかないし、大きな口を開けて笑わないものです」とその「不自然さ」こそが価値であると主張する。前半、何度も繰り返される「高貴な姫君」というワードは、姫を自然から切り離していく都の生活の象徴である。
育ての親である翁は「高貴な姫君となり、しかるべき公達に娶られること」こそが姫の幸せだと信じて疑わず、それを推し進めようとする。それは私が出会う「いい大学に入り、いい就職をすること」こそが子どもの幸せだと主張する親たち(そしてそれをひときわ強く主張するのはやはり父親が多い)となんら変わりはない。隣にいる子がどんなに悲しそうな顔をしているかに関心がないように見えても、彼らは子どもをちゃんと愛している。だからこそ、子どもにとってはたちが悪い。愛してくれる親のために、なんとか期待に答えねばと思う。自分は「子ども」なのだから、親の言う「価値」が理解できないだけなのだ、今はおとなしく言うことを聞いたほうがきっといいのだ、と思おうとする。髪上げをするかぐや姫は、普通の年齢で言えば13歳前後。価値観の違う聞く耳を持たない親に、自らの主張をぶつけるのは、難しい年齢である。原作でも五人の貴公子と「逢う」(は古語では「結婚する」の意を持つ)よう姫に「我子の佛變化の人と申しながら、こゝら大さまで養ひ奉る志疎おろかならず。翁の申さんこと聞き給ひてんや。」と頼む翁に、姫が「何事をか宣はん事を承らざらん。變化の者にて侍りけん身とも知らず、親とこそ思ひ奉れ。」と答えて、条件を言い出すことになっている。
父子の価値観のすれ違いは、母によって取り持たれる。翁の妻媼は、夫の思いを汲み都に移り住みながらも、家の裏に「山の暮らし」を疑似体験できる小さな庭を作ることで、姫の心の拠り所とさせる。姫は自分のことを思って父が強いる「不自然」生活で生じるストレスを、母の守る「自然」で癒やすのである。そしてこれもまた、私が出会う親子によくある関係性である。(もっとも、父と母が逆の場合もあれば、両親共にストレス要因になってしまって逃げ場のない子もたくさんいるのだが。)しかし、かぐや姫は気づいてしまう。否、気付かされてしまう。翁のためと言い訳し、自分の思いをきちんと正攻法で遂げようとしなかった自分の罪に。媼の側でミニチュアの山を愛でては、ほんのひと時ストレスから解放されたことで「この生活」に満足していると自分をごまかしてきた罪に。帝に抱きすくめられ、決定的な嫌悪感を抱いてしまった瞬間、自らの手でそれを解決することなく無意識ながら「月」に助けを求めてしまったことで、それが自分がこの地に使わされる原因である「罪」であったと気付かされてしまうのだ。
原作では姫を迎えに来た天人が「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれが許にしばしおはしつるなり。」と言う。しかし、その罪の具体的な内容に関する記述はない。授業で取り上げるときにも、生徒がとても関心を持つ部分であるが、何の根拠もないので今まで触れたことはなかった。しかし、この罪を映画にそって考えるとするならば、物語は一気に現代性を帯び、我々の胸に迫る。311で、私たちは自らの限られた生を思い知らされた。当たり前に続くものと思っていた日常が突然断ち切られるどうしようもない傷みと悲しみを、あの地震と津波をリアルタイムで目撃した私たちは、誰もが自分のことのように感じたはずだ。そして、今のこの時をどれほど大切にしなければならないかに思い至ったはずだ。しかし、二年半を経た今、自分の中でどれだけ意識的にあの思いと向きあっているだろうか。日々の生活の中で、結局取り紛らわせてしまっているのではないだろうか。仕事が忙しい、大事なのはわかるけど、なかなか思うようにはできるものではない。いつも自分自身に言い訳ばかりして、ごまかしてしまっているのではないだろうか。
月の世界は何の苦しみも、何の悲しみもない「清ら」な世界である。それは、月からの迎えの奏でる一点の曇もない底抜けに明るい音楽に象徴されている。その苦しみや悲しみのない世界を「退屈」に思ってしまい、混沌とした地上に憧れてしまったのがかぐや姫の罪だと高畑監督はパンフレットに書いておられたが、それを読み、私の感じたものが間違いではなかったと確信できた。人の世には「苦しみ」があり「悲しみ」があり、いわゆる仏教の「愛別離苦」が存在するからこそ「生」への愛おしみが生まれる。「苦しみ」や「悲しみ」がなければ「愛」もまた生まれない。月の世界はその全てがない清浄な世界であるが、言い換えれば清らかすぎて面白みもない世界なのである。だからこそ、かぐや姫は地上に憧れもしたし、地上を愛おしくも思った。しかし、そこで起こる「苦しみ」や「悲しみ」を自ら乗り越えることを放棄してしまった時に、「苦しみ」や「悲しみ」がない方がいい、月の世界の方がいいと思ってしまったとされてしまったのである。蛇足だが、原作には無論、帝との一件が帰される理由であるというような因果関係は書かれていない。高畑監督ならではの見事な読み解きだと感服しきりである。
そうなると、限られた時間の中で姫が求めるものは、月の世界には存在しない「愛」だ。姫にとって何にも代え難い愛しき日々である幼いころを共に過ごした捨丸兄ちゃんと、抱き合って空を駆けるシーンは、とても清々しい、それでいて艶かしいラブシーンだ。たった一度だけの、しかし、生涯消えない、記憶を消されても体に刻みつけられたよろこびを抱いて、姫は月へと昇るのである。ここに来て、主題歌の『いのちの記憶』の歌詞がじんと胸に染みこむ。「いまのすべて」は「過去のすべて」であり、「未来の希望」でもある。そんな「いま」を生きなければ、「過去」も「未来」もないのだ。その重みが、美しい映像とともに体に流れ込む。今一度、立ち止まって、いまをみつめよう。そう思わせてくれる素敵な映画だった。
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Comments
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とても興味深い映画評でした。
親と子のコミュニケーションと子どもの人格形成との関わりが現れていて面白いですね。
東北の女川の人に聞いた話ですが、被災後、結婚する人と離婚する人の数が増えたと言われていました。この話とつながる気がします。
まっとうなコミュニケーションのないところに愛はないですね。まっとうなコミュニケーションは、魂から創発するものに基づいたメッセージの交換ですから。
Posted by: 理 | January 19, 2014 10:18 PM
理さん
コメントありがとうございます。
なんでも教育目線で見てしまうのは、否めません(笑)
コミュニケーションの問題は、最後までとことん突き詰めれば、
どういう結果であれそれなりに納得できるのかもしれません。
それこそが魂の交流と呼べるものかもしれないですね。
Posted by: 海紘 | January 20, 2014 11:14 PM