飛龍伝21 ~殺戮の秋〈いつの日か、白き翼に乗りて〉
「つかこうへい」をもちろん知らないわけがない。
『蒲田行進曲』や『幕末純情伝』は映画でなら見たし、
その独自の演出法に心頭し、
門下に入る役者が多くいたことも知っている。
昭和の演劇史を積み上げた御大、
であるがゆえに敷居が高いというのが実際のところで、
結局ご存命中に劇場に足を運ぶことはできなかった。
(蜷川さんも似たような理由で見ていなかったのだが
去年『ボクの四谷怪談』で度肝を抜かれた。
やはり、いいと呼ばれるものには理由がある。
食わず嫌いは良くない。)
つか演劇を生で体験している私の観劇の師匠(笑)が
「つかさん、生きてる」などとのたまうもので、
今回の『飛龍伝』に、当日券で急遽参戦。
(これはまさしく参戦でしょ。)
つか芝居に関しては、そういうわけで、私が語る資格など
毛頭ないのだけれど、やはり最初に、
台詞の聞き取れなさに面食らう。
何故にこんなに叫んでいるんだ・・・
割れ割れで聞き取れない・・・
と、前途多難に感じたのも束の間(は、言い過ぎだが、まぁ、洒落として)
だんだん聴けるようになる。
あるいは、聴けないまでも、なんだかわかるようになる。
台詞は言葉のみにあらず、だ。
ほとんど無いに等しい舞台装置も衣装も、「そういう世界」に感じられる。
不思議な感覚だ。
物語は1970年秋。
70年安保をめぐる全共闘と国家権力(の末端である機動隊)の
闘争の中での愛憎劇。
何しろ副題が「殺戮の秋」というからに、芝居全体が
暴力と死と不条理で溢れている。
・・・と書いてしまうと、いかにも陰惨なものに感じられるかも知れない。
しかしながら実際は、カラッと、スパっと、スッキリ、といった趣さえある。
ストーリー自体には救いようもない悲しみや切なさや悲惨さに溢れているのに、
それをそれだけに見せない仕掛けがそこにはあった。
例えば、殴る時のSE。
大げさな漫画の効果音の如き音が入ることで、
それは記号化し、実際の「傷み」から距離を置くことが出来る。
逆に言えば、その仕掛けがなければ、とても直視できないほどの暴力が
舞台上では繰り広げられる。
私は思想的には「安保反対」側で、
沖縄の県民集会にも参加するタイプの人間だが、
全共闘の闘争スタイルにはやはり賛同できない。
・・・と書いてしまえるのは、もちろん、この平成も四半世紀を過ぎた
今だからであって、たぶん、あの時代に大学生であったなら
過激に声をあらげ、ことによると、実際の闘争現場に身を投じていたであろう。
今、「暴力に訴えるはよくない」などと言えるのは、
歴史の中で暴力の「非力さ」と暴力で何かを得る時の代償の大きさを
思い知ったからであって、暴力しか「言語」のなかったあの時代の
彼らの生き方を批判することは決してできないことだ。
主人公、神林美智子は、ノンポリの優秀な女子大生に過ぎなかったのに、
東京に出て、全共闘作戦参謀部長桂木の「女」になったため、
作戦の一環として、全共闘40万人を束ねる委員長にまつりあげられてしまう。
「高尚」に思える「思想」を共有する理想的な「男」のために、
身も心も捧げる美智子は、
全共闘の思想を体現したかったわけでは全くなく、
単に好きな男を支える存在としての自分の価値を認められたい一心に見えた。
最初に全共闘に勧誘をしてきた男のことを、
関係を持った途端好きになってしまうという描写は、
そういう美智子の「ピュアな乙女心」の象徴であろうし、
「東京に出てこなければよかった」という独白も同じ心情からのものであろう。
「うら若き乙女」が、特に美智子のように
親からの愛情を十分に感じられていない女子が
恋愛に求めるのは、相手からの普遍の肯定だ。
お前が大切だ、お前がいないと困ると言ってくれる存在が
いちばん大切なものであり、それを失わないためには
まさに「心身込めて尽くす」のである。
しかもそれが「高尚」な「思想」を介するものであるならば、
個人的な満足を超えて、社会的にも認知されている安心感が得られる。
しかし、バレリーナの爪先立ちの如く、無理して高みを望むような姿勢は
いつまでも続けられるものではない。
そんな時に寄りかかってしまいたくなるのが
山崎一平のような、「思想」などと無関係な、
全く理屈抜きで本能だけで自分を愛し、守ってくれる
「中学出の機動隊員」なのである。
桂木も山崎も、どちらも好きだと思えてしまう美智子の気持ちには
何の矛盾もない。
彼女の心情は、かつて「うら若き乙女」だった私には、まるごと理解できる。
そして、彼女の二倍生きてきた今、それはどちらも
人生を賭すことのできる「愛」ではないと言うことが出来る。
暴力にしか訴えられない全共闘の闘争スタイルも
全体主義を批判しながら似たような組織を作ってしまうことも、
根本は同じなのだ。
人生は0か100かではなく、何百、何千もの層のある奥深いものだ。
思想も愛情も憎しみさえも、極端には語れない。
グラデーションを、しかも何色ものそれを、幾通りも生み出すことこそが
人生の深みであり、喜びであると、
混じりけのない原色だけで描かれた『飛龍伝』を見るとしみじみ感じられる。
その目が痛くなるほどの原色は、見ているこちらが自ら調合しなければ、
言語にはならない。
それを伝えているのが、なんの誂もない演劇スタイルなのだろう。
この題材で、このスタイルで、この台詞でなければ、絶対に成立しない
曲解されてしまう芝居。
これこそが真の個性であり、つかこうへいにしか作れない世界なのだ。
タキシードの男優陣に
白いドレスも鮮やかな桐谷美玲嬢の秀麗さ、
舞い飛ぶ金銀のテープといった
先ほどまで繰り広げられていた舞台とは対照的な
なんとも派手なエンディング。
40年たっても全く解決されていないこの国の問題の根深さを
見せつけられて、混沌とした脳裏に
昭和の時代の華やかさとやるせなさを響かせるフィナーレ。
かくして、カオスのまま青山劇場を離れた。
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