青年座『ハッピー・マン 1862 上海大冒険』@青年座劇場
『HAPPY MAN』って、あの漫画かなぁ、
けっこう仮面みたいな佐那子さんが出てくるの?
でも青年座ってオカタイとこじゃないんだろうか、
新劇でしょ?と疑問だらけで降り立った代々木八幡駅。
小田急線の普通列車に乗る場所が分からず、
タッチの差で電車に乗り遅れた上、
略図のちずがちっとも読めず、迷いに迷って、
開演時間を5分あまり過ぎてから席に着いた。
インターネット予約でぎりぎりに取った席は
もともとは関係者席だったらしく、一番後ろのど真ん中。
とはいっても、舞台が十字に作られていて、
その開いている部分三方に席が作られているので
それほど遠くには感じない。
そう、青年座劇場は、稼動式座席(要はパイプ椅子)!
たぶんただの広い空間があって
それが演目にあわせて様々な形にされるのだろう。
「こういう舞台のつくりは、客席の方を向かなくてはいけないと
意識せずにすむから、役者には楽なんだよ」
などと、専門家っぽい会話が聞こえるなぁ、と
隣を見たら、なんと脚本家のマキノノゾミ氏が!
ひょえぇ~原作者の隣で観劇!?緊張!!!
おまけに狭い座席でやたら肩が当たってしまい
申し訳ありませんでした・・・
さて、『HAPPY MAN』は、やっぱりあの『HAPPY MAN』だった。
佐那子さんは出てこなかったけど
女松陰先生が出てきた。
ああ、そうだよ、これも特徴だった。
やっぱり、あの漫画を下敷きにしてるのねぇ・・・
と失礼ながら思っていたが、
帰って、漫画を確認して、
漫画のほうが演劇を下敷きにしてたことを思い出す。
そうだ、そうそう、読み終わった後に、
こんなの演劇でどうやるんだろうって
思ったんだった。もう二十年近く前の記憶が
うっすらとよみがえってきた。
話は舞台に戻るが、この話は簡単に言えば
「上海で坂本龍馬が仲良しのパンダに助けられる」
という話。(と、マキノさんが書いていた。)
確かに、ご本人も書いているとおり
「若気の至り」の勢いで出来上がった
若々しいストーリーと言えるかも知れない。
何しろ松陰先生は女で、
松下村塾の門下生はみんな松陰先生に恋してるし、
龍馬は上海に渡っちゃうし(そんな史実はない)
1862年には発見さえされてないパンダと友達になっちゃうし
むちゃくちゃである(笑)
でも、だから、なんだよ、なのだ。
私も若かりし頃は
(自分で言うのもなんだが私は今で言う歴女である。
しかもかなりうるさい。
日本史のテスト監督に行ったら、一緒にやるのだが
去年は生徒より出来たりしていた)
「あの作品は史実と違う」とか
「ここは史実上おかしい」とか
姑みたいな態度でいろんなものを観ていたのだが
最近は、「史実に忠実ならイイってもんじゃないしね」
などとちょっとゆるい感じで楽しめるようになった。
描くべきなのは、人間なのだ。
龍馬のような人間だったら、この場面でどうしたのか、
晋作のような人間だったら、この時になんと言ったのか、
それぞれの人間の生き様から、
彼らが描きえなかった物語を描く。
そのほうがずっと面白い。
1862年の上海で、晋作と龍馬は、
清を食い物にするイギリス人や
太平天国の関係者や
中国裏社会のボスに出会う。
上海に行かなかった竜馬はもちろん
実際に足を踏み入れた晋作でも
あまり交流はなかったであろうと思われる
人々である。
そんな彼らとの交流の中で
龍馬は実に龍馬らしく、
晋作も実に晋作らしく振る舞う。
アイデンティティの源が
何にあるかは、もちろん人それぞれだろうけれど
あの時代の人間の多くは、
自分の生きてきた国を、今のわれわれ以上に
強く自分の中に感じていたのではないかと思う。
土着という意味でも、生きる世界という意味でも
他に変えられぬ特別なものだと
思っていたのではないだろうか。
そんな中で、自分の国を乗っ取られる危機感を
感じている彼らの焦燥はいかほどのものだったのだろうか。
そして、実際に踏みにじられていた
清の人々の切なさと、悔しさと、情けなさは
容易には想像できないほどの激しさであろう。
だからこそ、そこで戦う不屈の意志が
彼らを輝かせたのであろう。
現実にはあり得ないであろう
このハチャメチャな設定から
その輝きを感じることが出来るのが
演劇の醍醐味なのだろう。
若手養成公演と言うことだったが
十分に楽しめた。
可能なら、他の二本もいつか観てみたいなぁ・・・
postscript
1月31日の観劇なので、ちょっとしたら移しますので。。。
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