消えない罪
夕べのNHKスペシャルは
「戦後60年 靖国問題を考える」。
パネラーは上坂冬子、姜尚中、子安宣邦、所功。
あまりに噛み合ない論議に唖然としたが
噛み合ないからこそ、
なんだか底にあるものが見えた気がした。
勝手にまとめさせてもらうと
上坂さん曰く「戦勝国の行った一方的な裁判で
罪を裁かれ、それを引き受けて、
いくつもの命を捧げたのだから、
もう償いは済んでいる。」
姜さん曰く「東京裁判を受け入れることで、
日本は国際社会に復帰したのだから、
そこで認めた戦争犯罪への反省を見せるべきで、
あの戦争で侵略行為の先頭に立った人々を
「英霊」と呼ぶのはおかしいのではないか」
この論理の底にあるのは
「罪は償えば消えるのか?否か?」では
無いだろうか。
日本には「禊」ということばがあって、
古来、不浄に触れた時に、水で身を清めると
その不浄が消えると考えていた。
まさに「水に流す」わけだ。
汚職をした政治家が「禊」して
選挙に出るなんてのも
日本では見慣れた風景だ。
狭い島国で、一度の罪で追放されてしまっては
やり直す場も無く、生きる道を断たれる。
人は間違えを犯すものだから、明日は我が身だ。
寛容で、言わば馴れ合いな
日本的な社会らしい風習だ。
それ自身は、ある意味
「古き良き日本の美しさ」の一景かもしれない。
しかし、国際社会では、
通じないのではないだろうか?
現代日本も含む国際社会では、
やはり自分のしたことの責任はいつまでも
負うべきだというのが
スタンダードではないだろうか。
罪は償っても消えるものではない。
傷つけた人に対する償いは、
もちろん十分にするべきだ。
そして、罪を犯したら、
たとえ、互いの合意に及んだ償いが済んだとしても
その事実を 一生背負って、
二度と同じ過ちを繰り返さないための
永遠の反省の糧としなければならない。
戦後60年を迎えて、
首都に見るもおぞましいモニュメントを作った
ドイツのように。
その反省の姿を、忘れないように
かたちにし続けなければならない。
神戸の胸痛む少年犯罪の被害者となった
幼女の母親は 加害少年に対して、
「人の心を取り戻して生きて欲しい。
あの子を殺したことを心に病んで、
生き続けて欲しい」と言っていると言う。
被害にあった人の気持ちとは、
そう言うものではないだろうか。
この悲しみを無駄にしたくない。
苦しんだ分だけ、それを未来につなげて欲しい。
そうでなければ切なすぎるではないか。
むろんこれは日本だけの問題ではない。
原爆投下や核実験に関わった人々も、
イラク戦争に関しての悲劇も、
未だ続くテロの実行犯も、
人為事故を引き起こしたシステムも、
公害をまき散らした企業も、
それを規制しなかった官庁も。
悲しい行為の原因をきちんと突き止めた上の
本当の反省の心の痛みの上にしか、
美しい花は咲かない。
自戒も込めて。
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