渓嵐国泰山海紘宮

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January 14, 2015

いやおうなしに

古田新太とキョンキョン、PARCOプロデュースだし、「歌謡」だし、まぁ、ハズレはないか。
と、安易な気持ちでなんの予備知識もなく(チラシの煽りさえ読みもせず)見に来てしまった。
珍しく開場時間に入って、客入りの曲を聞いて「なにこれ?面白いけど?歌詞すげーな。でも、楽曲はやたらかっこいいし。まさしく「歌謡ファンク」だな」と思っていたら、それが劇中の本当の主役「Only Love Hurts」(旧名:「面影ラッキーホール」通称:「O.L.H.」)の楽曲だった。
この芝居は、「O.L.H.」の「歌謡」の世界を舞台化したもの。芝居のために書き下ろされた曲ではなく、「O.L.H.」の歌詞にある世界観を実写化した作品である。
と言っても「O.L.H.」を知らない(数時間前の私を含めた)輩には想像もつかないと思うので、歌のタイトルだけをちょっと書き上げてみよう。
「俺のせいで甲子園に行けなかった」
「好きな男の名前 腕にコンパスの針でかいた」
「あんなに反対してたお義父さんにビールつがれて」
「ひとり暮らしのホステスが初めて新聞をとった」
「おみそしるあっためてのみなね」
「パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた…夏」
重ねて言うが、これ、全部歌のタイトルである。が、これを続けて読んだだけで、くっきりとした生々しい世界観が浮かび上がってくる。一幕目の初め、私の脳裏に浮かんだのはあのNHKのドキュメンタリー番組「72時間」だった。みんな普通の顔して雨の中ガソリン入れに来てるのに壮絶な人生背負ってたりする、あの現実の凄まじさ。空々しいような絵に描いたような「不幸」は実は凄くリアルで、だからこそ「歌謡」にして「昇華」していかなければならないという、昭和の時代には確かに存在していたある種のカタルシスが体現される。
平成も四半世紀経って(ん?なんかYahoo!でググる的表現?)なんだか妙に世の中がクリーンになった。エネルギーや政治家がクリーンなことは喜ばしいが(あ、このふたつは未だクリーンじゃない筆頭でしたね(^^;;)、「平成の清き流れに住みかねて」感も拭えない。人間は清濁合わせ呑んで滋味が出るもんではないかと思うのだが、昨今やたらクリーンさが幅を利かせてて、「つまらない」というか「味気ない」というか「息苦しい」というか。配慮配慮が行き過ぎて、芸術の世界までもなんだか隅々まで光に満ちてて。イカガワシイものとか、下世話なものとか、王道でないものが排除されてしまうのは寂しく無味乾燥。ライヴで褒章受賞をネタにして炎上とかほんと、つっまんねぇ世の中である。もしかすると、このつまらなさって歌謡が無くなっちゃったからではないのか?とまで思わされる演目だった。
そんなイカガワシサ満載、下世話満載、もはや下衆としか言えないスタイルで描き出されるテーマはまさしく「愛」。「愛の測り方」である。

若い時には完全に勘違いしていて、いまだにたまに(イヤ結構頻繁に)失念してしまう、「愛の尺度」への認識。そもそも愛なんて測れるものではない、と「クリーン」に「クレバー」にことばにしてはいるけれど、実際は測りたくてしょうがない。「♪いつだって I love you more than you 」とユーミンの曲が流れたり、「♪仕事と私とどっちが大事よ Love me tonight」とムーンライダーズが流れたり、常に「それ」を気にしてる。愛情の証にモノを買いたくなってしまうし、略奪愛の実話なんぞ聞くとちょっと羨ましくなってしまう(爆)
時間やお金を費やすこと、より困難な状況を乗り越えること、それこそ愛の強さだと、安直にも思ってしまう。
この話に出てくる人たちは、みんなその勘違いに囚われていて、それ故に「不幸」になっていく。けれどもそれだって本当に「不幸」なのか?と問われたら、明確には言い切れない。先日読んだ『無痛社会のゆくえ』という評論が「無痛社会を極めると、喜びを感じにくくなる」と結ばれていて、なかなか感傷的だと感じたのだけど、「一匙の不幸」は「幸福」を増幅させる大切な要因なのかもしれない。
「愛」は「クリーン」や「クレバー」なものではない。「測れない」のは真実だろうけど、「測りたい」のも真実なのだ。「測りたい」気持ちをくだらない、間違ってると切り捨てたら、その瞬間に「愛」の滋味は薄れてしまう。でも、「測りたい」ばかりにとらわれたら、辛くなるばかりで「愛」を擦り切らせてしまう。
断ち切るばかりに「愛」を測ろうと貪欲に臨み、傷つき、壊れていく登場人物たちを眺めながら、オーディエンスである私は、上手にバランスを取ろうと、ずる賢く思う。
「測れない」ことを認識しながら、時々わざと忘れてみよう。
壊れない程度に、壊さない程度に、貪欲に求めてみよう。
時々バランスを失うのも、まぁご愛嬌。
古田新太演じる太一が言うように「一般庶民は底から這い上がる時しか希望がない」のだから、落ちた時でも楽しんで(笑)
悲惨で、陰鬱で、暴力がてんこ盛りの舞台ながら、希望の一歩を登らせるちからのある不思議な演目。
特にご両親からクレームが来るんじゃないかと製作陣が心配している高畑充希ちゃんの体当たり演技は、見もの。
昭和は遠くなりにけり、されど昭和はここにあり。
ちょっと昔のカタルシスに浸りたい方は、是非2月のPARCO劇場へ。CD買います。

May 06, 2014

ネブラスカ 二人の心をつなぐ旅

昨日、出かける前に8時近くにしか帰れないことを伝え、
夕飯がその後でいいか確認をしてから出かけたのに、
映画館から出たら着信の嵐。

80歳近くなった父は最近、物忘れが酷いのはもちろんのこと、
自分のミスを認めなくなってしまい、毎日小さなトラブルが後を絶たない。
そんな中で本日鑑賞した『ネブラスカ〜ふたつの心をつなぐ旅』。
年老いた父母と付き合うことが、いかに大変で、
それでいて外から見たら微笑ましいものかつくづく感じられる映画だった。
思い込み、こだわりがどんどん強くなって、客観的視点がどんどん弱くなる。
それはきっと誰にでも訪れることで、特別なことではない。
それに、私にとってはそういう子どもたちの居場所をどうやって作っていくかは
仕事の中で毎日考えていることのはず。
でも、在りし日の立派な姿を記憶している父母に対しては
同じ気持になかなかなれないんだよなぁ。
・・・と思いつつも、やっぱりこの変化を嘆くだけではなく、
チャンスにしていくことを考えることが、お互いのために必要なんだろうな。

とてもシンプルなのだけど、そのために必要なのは、
やはりしっかりと向きあうこと。
理由はともあれ、父親とふたりきりで旅に出て、
父が若かりし日を過ごした場所で若いころの父を知る人々と出逢い、
父親がどんな人生を歩んできたのかを噛み締めた息子は、
父との出会い直しを果たしていく。

人に歴史あり。
どんな人にも、その人を培った経験があり、
それを知ることでおおらかな気持ちになれる。
あまりハリウッド映画ではお目にかかることのない
さびれたアメリカの田舎の風景がモノクロで映しだされるのも、
その「歴史」にリアリティを感じさせる。
切ないテーマながら、そこここに散りばめられたユーモアが、
決して重苦しくせずに二時間を楽しませてくれた。
ギターが印象的なアコースティックな音楽も素敵だった。

両親のお守りに疲れてる人にはおすすめです(^^;;

April 27, 2014

タンゴ・リブレ 君を想う

 人間関係というものは、生きているとそれなりにややこしくなってしまうものであるが、
 映画や小説にはこれまたなかなか出会わない複雑な関係が描かれるのが常だ。

 『タンゴ・リブレ 君を想う』で描かれるのも、映画中盤まで明かされない実に不可解な関係性。
 それが明らかになるに連れて、いかに微妙なバランスで、
 その関係が積み重ねられていたかが身につまされる。
 舞台は、どうもベルギーのどこかの刑務所らしいのだけれども、
 田舎特有の狭い人間関係の中でこじれてしまいながらも、
 それを編み直すこともできない、諦めを含んだ気怠い閉塞感が映画を支配している。
 
 そんな雰囲気に風穴を空けるのがアルゼンチン・タンゴだ。
 踊る、という行為は人間にとってどんな意味を持つのだろう。
 文化祭や体育祭で踊る高校生を見ていると、
 なんとも心打たれてしまうのだけれど、その訳は自分でもよくわからない。
 わからないのだけれども、やはりグルーブと呼ばれるものに呑まれていく、
 個を超えた大きな何かを体現していくその様子が、
 なにかしら魅力を放っているのは確かだろう。
 そして、傍観者としてではなく、その只中に身を置くとき、
 そのことばにしがたい魅力に、感電するように圧倒されていくもののように思う。
 この映画は、そういう踊りの魔力のようなものが、
 微妙に保たれていたバランスを打ち破っていく物語である。

 ラストの直前まで、歪な、それでいてありふれていると感じてしまう
 恋に浮かされた男の愚かな振る舞いのもとで、後味悪く幕が下りるのかと
 多少なりともうんざりしていたのだが、
 最後の数分間で、なんとも不思議な爽快さが醸しだされる。
 私にとってはとても意外なラストだった。(勘が悪いだろうか・・・)
 そして最初の関係はますます複雑に微妙になっていくのだが、
 それがなんとも映画的だ、と、してやられたことに思わずにんまりしてしまう。
 それを成功させるのは、ヒロインの魅力だろう。
 欠陥だらけのひどい人間性を描きながらも、
 これだけ破綻に満ちた物語を収束させるだけの魅力を醸すヒロインを演じ、
 さらに脚本も手がけたという稀有な女優の存在が、
 この映画の肝だといえると思う。
 
 
 

December 08, 2013

かぐや姫の物語

今は昔竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつつ、よろづのことに使ひけり。

岩絵具で描かれたような淡い色彩の中に『竹取物語』の冒頭文がそのまま流れ込み、空間ごと平安初期へと溶け入る。
そこは、自然と共鳴して生きる狩猟や農耕で成り立つ社会に住む人と、その他人の営みに依存しながら違う価値観の中で都で暮らす人々が分岐し始めた、いわば資本主義社会の萌芽のような世界である。

『竹取物語』では、姫は翁に見出された「三寸ばかりなる」「いとうつくし」い様子のまま、「妻の嫗にあづけ」られ、「いと幼ければ籠に入れて養」われる。
しかし、この映画では、普通の赤ん坊に姿を変え、桃を食べて若返った桃太郎のおばあさんよろしく、媼の乳によって育てられる。
育児の過程も原作では、「三月ばかりになる程に、よきほどなる人になり」「髪上などさだして、髪上せさせ裳着す」ることになるし、「帳の内よりも出さず、いつきかしづき養ふ」という箱入り娘ぶりだが、映画では、おしりも丸出しのまま近所のこどもと野原を駆け回りながらのびのびと育つ。「たけのこ」と呼ばれるほど周りの子どもとは成長の早さが違うが、髪上げをするまでには原作の約三倍の時間がかかっている。

約19000字の『竹取物語』の中で、髪上げの儀式までの描写は約560字。約2%に過ぎない。しかし、映画では、ここまでに約半分の時間を割く。この「育ち」の描写が、テーマと深く関わってくるからである。

映画の中のかぐや姫は、髪上げの儀式に際し、眉を抜きお歯黒をすることに対して「汗が目に入ってしまうし、口を開けて笑ったら変だ」と抵抗を示す。もちろん原作にはないエピソードだ。かぐや姫が拒絶を示すその理由はただひとつ「人として生きていくのに不自然なことを強要されるのは嫌だ」からである。しかし、教育係の相模は「高貴な姫君は汗などかかないし、大きな口を開けて笑わないものです」とその「不自然さ」こそが価値であると主張する。前半、何度も繰り返される「高貴な姫君」というワードは、姫を自然から切り離していく都の生活の象徴である。

育ての親である翁は「高貴な姫君となり、しかるべき公達に娶られること」こそが姫の幸せだと信じて疑わず、それを推し進めようとする。それは私が出会う「いい大学に入り、いい就職をすること」こそが子どもの幸せだと主張する親たち(そしてそれをひときわ強く主張するのはやはり父親が多い)となんら変わりはない。隣にいる子がどんなに悲しそうな顔をしているかに関心がないように見えても、彼らは子どもをちゃんと愛している。だからこそ、子どもにとってはたちが悪い。愛してくれる親のために、なんとか期待に答えねばと思う。自分は「子ども」なのだから、親の言う「価値」が理解できないだけなのだ、今はおとなしく言うことを聞いたほうがきっといいのだ、と思おうとする。髪上げをするかぐや姫は、普通の年齢で言えば13歳前後。価値観の違う聞く耳を持たない親に、自らの主張をぶつけるのは、難しい年齢である。原作でも五人の貴公子と「逢う」(は古語では「結婚する」の意を持つ)よう姫に「我子の佛變化の人と申しながら、こゝら大さまで養ひ奉る志疎おろかならず。翁の申さんこと聞き給ひてんや。」と頼む翁に、姫が「何事をか宣はん事を承らざらん。變化の者にて侍りけん身とも知らず、親とこそ思ひ奉れ。」と答えて、条件を言い出すことになっている。

 父子の価値観のすれ違いは、母によって取り持たれる。翁の妻媼は、夫の思いを汲み都に移り住みながらも、家の裏に「山の暮らし」を疑似体験できる小さな庭を作ることで、姫の心の拠り所とさせる。姫は自分のことを思って父が強いる「不自然」生活で生じるストレスを、母の守る「自然」で癒やすのである。そしてこれもまた、私が出会う親子によくある関係性である。(もっとも、父と母が逆の場合もあれば、両親共にストレス要因になってしまって逃げ場のない子もたくさんいるのだが。)しかし、かぐや姫は気づいてしまう。否、気付かされてしまう。翁のためと言い訳し、自分の思いをきちんと正攻法で遂げようとしなかった自分の罪に。媼の側でミニチュアの山を愛でては、ほんのひと時ストレスから解放されたことで「この生活」に満足していると自分をごまかしてきた罪に。帝に抱きすくめられ、決定的な嫌悪感を抱いてしまった瞬間、自らの手でそれを解決することなく無意識ながら「月」に助けを求めてしまったことで、それが自分がこの地に使わされる原因である「罪」であったと気付かされてしまうのだ。

 原作では姫を迎えに来た天人が「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれが許にしばしおはしつるなり。」と言う。しかし、その罪の具体的な内容に関する記述はない。授業で取り上げるときにも、生徒がとても関心を持つ部分であるが、何の根拠もないので今まで触れたことはなかった。しかし、この罪を映画にそって考えるとするならば、物語は一気に現代性を帯び、我々の胸に迫る。311で、私たちは自らの限られた生を思い知らされた。当たり前に続くものと思っていた日常が突然断ち切られるどうしようもない傷みと悲しみを、あの地震と津波をリアルタイムで目撃した私たちは、誰もが自分のことのように感じたはずだ。そして、今のこの時をどれほど大切にしなければならないかに思い至ったはずだ。しかし、二年半を経た今、自分の中でどれだけ意識的にあの思いと向きあっているだろうか。日々の生活の中で、結局取り紛らわせてしまっているのではないだろうか。仕事が忙しい、大事なのはわかるけど、なかなか思うようにはできるものではない。いつも自分自身に言い訳ばかりして、ごまかしてしまっているのではないだろうか。

 月の世界は何の苦しみも、何の悲しみもない「清ら」な世界である。それは、月からの迎えの奏でる一点の曇もない底抜けに明るい音楽に象徴されている。その苦しみや悲しみのない世界を「退屈」に思ってしまい、混沌とした地上に憧れてしまったのがかぐや姫の罪だと高畑監督はパンフレットに書いておられたが、それを読み、私の感じたものが間違いではなかったと確信できた。人の世には「苦しみ」があり「悲しみ」があり、いわゆる仏教の「愛別離苦」が存在するからこそ「生」への愛おしみが生まれる。「苦しみ」や「悲しみ」がなければ「愛」もまた生まれない。月の世界はその全てがない清浄な世界であるが、言い換えれば清らかすぎて面白みもない世界なのである。だからこそ、かぐや姫は地上に憧れもしたし、地上を愛おしくも思った。しかし、そこで起こる「苦しみ」や「悲しみ」を自ら乗り越えることを放棄してしまった時に、「苦しみ」や「悲しみ」がない方がいい、月の世界の方がいいと思ってしまったとされてしまったのである。蛇足だが、原作には無論、帝との一件が帰される理由であるというような因果関係は書かれていない。高畑監督ならではの見事な読み解きだと感服しきりである。

 そうなると、限られた時間の中で姫が求めるものは、月の世界には存在しない「愛」だ。姫にとって何にも代え難い愛しき日々である幼いころを共に過ごした捨丸兄ちゃんと、抱き合って空を駆けるシーンは、とても清々しい、それでいて艶かしいラブシーンだ。たった一度だけの、しかし、生涯消えない、記憶を消されても体に刻みつけられたよろこびを抱いて、姫は月へと昇るのである。ここに来て、主題歌の『いのちの記憶』の歌詞がじんと胸に染みこむ。「いまのすべて」は「過去のすべて」であり、「未来の希望」でもある。そんな「いま」を生きなければ、「過去」も「未来」もないのだ。その重みが、美しい映像とともに体に流れ込む。今一度、立ち止まって、いまをみつめよう。そう思わせてくれる素敵な映画だった。


October 20, 2013

それからのブンとフン

混沌の青山劇場をあとに、天王洲の銀河劇場に向かう。
つかさんと同じく昭和を代表する戯曲家井上ひさしの
音楽劇『それからのブンとフン』。
ひたすら自分の信念だけに従って書くのだから、
自分の書くものなど売れるはずがないと豪語する小説家、
憤先生の生み出したこの世に不可能はない四次元人間の怪盗ブン。
男でもなく女でもない、何にだってなりうるブンが、
小説の世界を飛び出して、ありとあらゆるものを盗み出す、という空想物語に、
舞台下手にしつらえたグランドピアノを中心に流れ出す音楽が添えられるのだから、
青山劇場とは真逆のなんともファンタジックな劇空間が広がる。

が、休憩後にの第二幕で、急に二つの世界がシンクロする。
♪いやなやつからいやなところを
悪いやつから悪いところを
気高い方から気高いところを
ぶった方からぶったところを
盗みましょう、と歌うブンが目指す世界は、
桂木純一郎たちが目指していた平等な社会に似ていて、
実際、全共闘ならぬ全ブン闘も、ヘルメットとヤッケ姿で登場。
アナーキーな行動が弾圧されるのは、ここでも一緒で、
ブンは国家権力に追われる身となる。
(もっとも、そもそも泥棒なのだから当然だが)
しかし、ブンは万能四次元人間、警察などの歯が立つ相手ではない。
しかし、生みの親である憤先生を人質に取られて禁固三百年余りの刑を受けるが、これまた発想の転換で社会を変革して逃げてしまう。

暴力でしか自らを表現できず、結局暴力に弾圧されていった全共闘の物語のあとの、
荒唐無稽ではあるけれども、体制をこともなくやり込めていく物語は爽快だ。
沖縄に住み、ずっと体制と対峙してきて、
恒常的な問題を解決する術が全く見えない閉塞感の中で観る
ブンとフンの物語は、実に示唆的だ。

牢屋を抜け出したブンたちが集う世界ブン大会。
ブンは刷られた本の数だけ、それぞれに好きな姿で抜け出しているのだから、
同じ人物でありながら、見た目だけでなく人格まで様々なブン達がいる。
中でも、各国の言葉に翻訳されたブンたちは、それぞれのお国事情により
憤先生が生み出したのとはテイストをことにする人物に成り果てている。

盗むものが黄金や宝石から野菜や果物に変わるのは序の口、
都合の悪い場所は伏字にされ、アナーキズムな思想は根こそぎ排除されている。
そこから抜け出したブンたちは、憤先生オリジナルのブンたちと敵対する。
表現の自由がいかに大切か、
あるいは自由に表現できないということがどれだけ事実を歪めていくのかを
ドタバタ劇の中であるにも関わらず、そのメッセージは実に鮮明だ。
特定秘密保護法案が強行に制定されようとしている今、
ト連や丹国のブンの追従は生身の恐怖さえ感じる。
また、偽ブンの出現から急展開を見せるところは、
ネット社会でのなりすましなどの問題にも重ねて感じられた。

『飛龍伝』も、この『それからのブンとフン』も、舞台となる時代は古い。
しかし、扱われている問題はじつに現代的だし、
2013年の今だからこそ戦慄を覚えるようなトピックも多い。
二人の劇作家の、時代を超えて存在し続ける課題を描く手腕に
感嘆せざる得ない。
これが、ホンモノというものなのだろう。
どちらも偶然に見ることになる作品であったが、
実に鮮烈な観劇体験であった。

October 17, 2013

飛龍伝21 ~殺戮の秋〈いつの日か、白き翼に乗りて〉

 「つかこうへい」をもちろん知らないわけがない。
 『蒲田行進曲』や『幕末純情伝』は映画でなら見たし、
 その独自の演出法に心頭し、
 門下に入る役者が多くいたことも知っている。
 昭和の演劇史を積み上げた御大、
 であるがゆえに敷居が高いというのが実際のところで、
 結局ご存命中に劇場に足を運ぶことはできなかった。
 (蜷川さんも似たような理由で見ていなかったのだが
  去年『ボクの四谷怪談』で度肝を抜かれた。
  やはり、いいと呼ばれるものには理由がある。
  食わず嫌いは良くない。)
 つか演劇を生で体験している私の観劇の師匠(笑)が
 「つかさん、生きてる」などとのたまうもので、
 今回の『飛龍伝』に、当日券で急遽参戦。
 (これはまさしく参戦でしょ。)

 つか芝居に関しては、そういうわけで、私が語る資格など
 毛頭ないのだけれど、やはり最初に、
 台詞の聞き取れなさに面食らう。
 何故にこんなに叫んでいるんだ・・・
 割れ割れで聞き取れない・・・
 と、前途多難に感じたのも束の間(は、言い過ぎだが、まぁ、洒落として)
 だんだん聴けるようになる。
 あるいは、聴けないまでも、なんだかわかるようになる。
 台詞は言葉のみにあらず、だ。
 ほとんど無いに等しい舞台装置も衣装も、「そういう世界」に感じられる。
 不思議な感覚だ。
 
 物語は1970年秋。
 70年安保をめぐる全共闘と国家権力(の末端である機動隊)の
 闘争の中での愛憎劇。
 何しろ副題が「殺戮の秋」というからに、芝居全体が
 暴力と死と不条理で溢れている。
 ・・・と書いてしまうと、いかにも陰惨なものに感じられるかも知れない。
 しかしながら実際は、カラッと、スパっと、スッキリ、といった趣さえある。
 ストーリー自体には救いようもない悲しみや切なさや悲惨さに溢れているのに、
 それをそれだけに見せない仕掛けがそこにはあった。

 例えば、殴る時のSE。
 大げさな漫画の効果音の如き音が入ることで、
 それは記号化し、実際の「傷み」から距離を置くことが出来る。
 逆に言えば、その仕掛けがなければ、とても直視できないほどの暴力が
 舞台上では繰り広げられる。

 私は思想的には「安保反対」側で、
 沖縄の県民集会にも参加するタイプの人間だが、
 全共闘の闘争スタイルにはやはり賛同できない。
 ・・・と書いてしまえるのは、もちろん、この平成も四半世紀を過ぎた
 今だからであって、たぶん、あの時代に大学生であったなら
 過激に声をあらげ、ことによると、実際の闘争現場に身を投じていたであろう。
 今、「暴力に訴えるはよくない」などと言えるのは、
 歴史の中で暴力の「非力さ」と暴力で何かを得る時の代償の大きさを
 思い知ったからであって、暴力しか「言語」のなかったあの時代の
 彼らの生き方を批判することは決してできないことだ。

 主人公、神林美智子は、ノンポリの優秀な女子大生に過ぎなかったのに、
 東京に出て、全共闘作戦参謀部長桂木の「女」になったため、
 作戦の一環として、全共闘40万人を束ねる委員長にまつりあげられてしまう。
 「高尚」に思える「思想」を共有する理想的な「男」のために、
 身も心も捧げる美智子は、
 全共闘の思想を体現したかったわけでは全くなく、
 単に好きな男を支える存在としての自分の価値を認められたい一心に見えた。
 最初に全共闘に勧誘をしてきた男のことを、
 関係を持った途端好きになってしまうという描写は、
 そういう美智子の「ピュアな乙女心」の象徴であろうし、
 「東京に出てこなければよかった」という独白も同じ心情からのものであろう。
 「うら若き乙女」が、特に美智子のように
 親からの愛情を十分に感じられていない女子が
 恋愛に求めるのは、相手からの普遍の肯定だ。
 お前が大切だ、お前がいないと困ると言ってくれる存在が
 いちばん大切なものであり、それを失わないためには
 まさに「心身込めて尽くす」のである。
 しかもそれが「高尚」な「思想」を介するものであるならば、
 個人的な満足を超えて、社会的にも認知されている安心感が得られる。
 しかし、バレリーナの爪先立ちの如く、無理して高みを望むような姿勢は
 いつまでも続けられるものではない。
 そんな時に寄りかかってしまいたくなるのが
 山崎一平のような、「思想」などと無関係な、
 全く理屈抜きで本能だけで自分を愛し、守ってくれる
 「中学出の機動隊員」なのである。
 桂木も山崎も、どちらも好きだと思えてしまう美智子の気持ちには
 何の矛盾もない。
 彼女の心情は、かつて「うら若き乙女」だった私には、まるごと理解できる。
 そして、彼女の二倍生きてきた今、それはどちらも
 人生を賭すことのできる「愛」ではないと言うことが出来る。

 暴力にしか訴えられない全共闘の闘争スタイルも
 全体主義を批判しながら似たような組織を作ってしまうことも、
 根本は同じなのだ。
 人生は0か100かではなく、何百、何千もの層のある奥深いものだ。
 思想も愛情も憎しみさえも、極端には語れない。
 グラデーションを、しかも何色ものそれを、幾通りも生み出すことこそが
 人生の深みであり、喜びであると、
 混じりけのない原色だけで描かれた『飛龍伝』を見るとしみじみ感じられる。
 その目が痛くなるほどの原色は、見ているこちらが自ら調合しなければ、
 言語にはならない。
 それを伝えているのが、なんの誂もない演劇スタイルなのだろう。
 この題材で、このスタイルで、この台詞でなければ、絶対に成立しない
 曲解されてしまう芝居。
 これこそが真の個性であり、つかこうへいにしか作れない世界なのだ。

 タキシードの男優陣に
 白いドレスも鮮やかな桐谷美玲嬢の秀麗さ、
 舞い飛ぶ金銀のテープといった
 先ほどまで繰り広げられていた舞台とは対照的な
 なんとも派手なエンディング。
 40年たっても全く解決されていないこの国の問題の根深さを
 見せつけられて、混沌とした脳裏に
 昭和の時代の華やかさとやるせなさを響かせるフィナーレ。
 かくして、カオスのまま青山劇場を離れた。
 
 
 
 
 

September 23, 2012

少年は残酷な弓を射る

少年は残酷な弓を射る

全編、恐怖と緊張感に貫かれて
息苦しくて仕方がなかった。
見ていて幸せになるものでは決して無いけれど
数日間うなされそうなインパクトがあるという意味では
凄まじい表現力を持った映画だといえる。

冒険家で作家のエヴァは、ケヴィンを妊娠したことによって
(世の母親と同じように)多くのことを諦めることになる。
そんなエヴァの気持ちを見透かすかのように
ケヴィンはエヴァだけに激しく反抗し、執拗に嫌がらせを続け、
16歳になる直前に、彼女のすべてを破壊し尽くすような事件を起こす。

ケヴィンの常軌を逸した振る舞いや表情に
こんな子供が自分の身内だったらどうすればいいのだろう、という思いに駆られ
身を斬られるような息苦しさに苛まれる。

なんでこんなことに・・・?
こんな恐ろしいことが、「私」には降りかからないという保証が欲しい。

ケヴィンが生まれながらにしての性格異常者だから。
そう片付けてしまえば簡単だ。
しかし、そんなことでは片付けられるのであれば
この映画はここまで恐怖を感じさせるものになっていないだろう。

ケヴィンが生まれたことを「心から」喜べないような
母親の愛情の不足が息子に伝わったから。
終始エヴァの視点で描かれているため、
この映画にはその自省の念が溢れている。
いや、「自省」というのは少し違うかもしれない。
私のせいなのか、私のせいなのかもしれない、でも・・・
エヴァの思いからはいつも「but」が抜け切れない。

確かに、完璧な母親ではなかったかもしれない。
だけど、こんな悲惨なことになるほど、ひどい母親でもなかった。

確かに一点の曇りもない愛情は注げなかった。
だけど、そんな母親は他にもいっぱいいるはずだ。

それは、外から見ていても正当であると思える。
しかし、それだけに、ここに描かれた悲劇が「特別」でないように思われてくる。
それが、恐怖の中心だ。

エヴァはずっとどうすればよかったのか自問し続ける。
しかし、その答えは堂々巡りで見えない。
正論を言うばかりで、エヴァの違和感を無視してことをすすめる夫との関係も
一つの要因だ。
仕事をしてた時のほうが幸せだと思ってしまう自分の気持ちのやるせなさも
それを見透かすかのように母が壁紙にした地図を汚すケヴィンの振る舞いも
多くのことがからみ合ってのこの不幸を、
断ち切れる気がしない絶望感に苛まれるだけだ。

ケヴィンの凶器となった、そして邦題にある「弓」も、また示唆的だ。
幼い時に病気になった時、急に素直になり母に甘えたケヴィンに
エヴァが読み聞かせた『ロビンフッド』に出てきた弓。
翌日、元気になるといつもの陰険さを取り戻すが、
弓への興味はさめず、父親に弓のセットを買ってもらって、
喜んで遊ぶのである。

病気の時だけ正気に戻る、というこの逆転(もむろんエヴァの視点だが)も
その唯一の正気が残したものが「弓」であったというエピソードも
噛み締めるとぞっとする。
そして何よりも、ラストのケヴィンの
「やった時は、理由がわかってる気がしていたけど、
 (2年たった)今はわからなくなった」ということば。
その表情は、あまりに儚げで、普通の少年なのだ。
恐ろしい目の光と、不気味なまでのもの食う姿を晒していた
あの凶悪な少年と同一人物とは思えないほどに。

赤という色の持つパワーで幕をあけ、
その色の煽る恐怖と凶悪さを見せつけて、
最後は真っ白いスクリーンが浮かび上がった。
赤と白のように割り切れないものが、
ふたつの色の強烈な印象で逆に浮かび上げられた。
そんな映画だった。

September 22, 2012

『広くてすてきな宇宙じゃないか』観劇は座席が大事 #caramel box

完全トリプルキャストとはいえ、同じ芝居を三本見て楽しめるのか⁈
というのが、実はチケットを予約する時の迷いでした。
加えて私の予定がはっきりしないのも手伝って、まごまごしていると、
ほとんど前売り券が買えない状況になってしまいました(・_・;

初日、せっかく東京にきているんだからと、
とりあえずまだ買えるスロープの分を有楽町でハーフプライスにてキープ。2階4列目センターより。
すでに売り切れているフォレストは、当日券に並んで何とかスピーカー前の補助席をゲット。

最初はこのイレギュラー席での鑑賞。
この席、千円安いのだけど、舞台が1/4ほど見えない(^_^;)
なるほど、定価4000円だからね(^^;;
私は左端だったので、下手で起こってることがわからず、
あとで違うキャストで見て納得、といったことも多々。
ただ、カシオくんが語ったり、
望遠鏡を覗く場所にとっても近いので、ドキドキ(*^^*)
だって、畑中くんなんだもの〜
あと、スピーカーの威力。
東京中の電気が止まった時には、風がきたよ!(◎_◎;)
あとは、舞台の振動が伝わってくる。
ホントに震度2くらいの揺れは感じる(^^;;
表情はよくわかるけど、全体が見えない、と
いうのがこの席の特徴です。

お次はスロープを2階から。
前回のアルジャーノンのイグニスキャストよりは前だし、
真ん中だけど、やっぱり遠いなぁ。
さっきが最前列だっただけにその差が。。。
しかしながら、ここで見てまず気づいたことは、
最前列では、照明が見えない!ということ。
一番驚いたのは、望遠鏡のシーンでの床一面に広がる星。
全く見えてなかった(笑)
その他にも、照明の色合いがあんまりわからないことが判明。
カーテンコールのあの美しい色も気づかなかったなぁ。
あとは、逆に星空の演出は上がきれて見えない。
最後のクライマックスでは、青のピンスポが目に入っちゃって
逆におばあちゃんが逆光で見えない(^^;;
角度の問題なのでしょうが。。。

千秋楽のリバーは、1階18列サブセンター。
一番いい席で、一番よく見えた♪( ´▽`)
よく見えると、見え方などどうでも良くなるので、
特徴はよく覚えてません(^^;;

やっぱり、演劇ってどこで見るかでだいぶ違うんだなぁ・・・
と改めて感じたトリプルキャストでした(^-^)

CSC結成20周年記念公演『広くてすてきな宇宙じゃないか』四方山話 #caramel box

コアなキャラメルボックスファンしか面白くないと思うので、
それ以外の方は読みとばして下さい(^^;;

今回の『広くてすてきな宇宙じゃないか』は
完全トリプルキャストで上演されていて、終演後、各キャストが作った手作り新聞が販売されています。

初日、フォレストキャストの時は、おっかーさんが手売りしてて、
群がる女性ファンに混じり、ほぼ手に触るだけ、という感じで握手してもらいました(^^;;

続いてスロープキャストのは、麗しの温井さんに千円札からお釣りを貰うという迷惑をおかけしつつ購入(^^;;
握手していただけますか?と聞いたら、もちろんです!と快く応じていただいた上
「またいらっしゃる予定ですか?」と話しかけてもらった(*^^*)
「千秋楽にチケットが買えれば(^^;;」と答えると、なるほどという表情ながら、
「是非また」と言って貰いました。うふふ。

そして本日のリバーキャスト千秋楽は、
阿部くん、森さん、新人の鈴木くんの三人が手売り。
阿部くんに「いちばんニュースキャスターっぽかったです。シラノ仕込みですね(^^;;」とか言いたかったのですが、順番的に鈴木くんの前に。
新人さんに話しかけるのはなんか知ったかぶりな気がして(^^;;
(実際、サカモトの人だ、とは思ったけど名前は出てこなくて(・_・;)
静かに買いました。

並んでる時に後ろにいた二人組の会話に混じりたかったんですが
勇気がなかったので、ちょっと再現したいと思います。

Aさん「筋わかってるのに、最後、泣いちゃうよね」
Bさん「面白かったね~三組とも微妙に違うんだろうね」
私の心の声「そうなんですよ、お父さんの見た夢とか、桂さんの決めポーズとか、全部全部違うんですよ~」
スタッフさん「只今、FRS全てのキャストの新聞を販売しております!」
Aさん「FRS。。。あ、FRSなんだ!今回のキャスト!(注:FRSとは劇中に出てくるファミリーレンタルサービスの略称)」
Bさん「そうなんだね~ でも、なんでスロープ?スカイとかじゃダメなの?」
Aさん「そうだよね、リバーとフォレストはわかるけど、スロープって。。。」
私の心の声「それはですね~坂口さんがおばあちゃん役だからです!リバーは石川さんの川、フォレストは大森さんの森なんですよ!」

本当にいろんな仕掛けがあって、キャラメルのお芝居は舞台の外でも楽しめます♪( ´▽`)

August 25, 2012

映画:るろうに剣心 #ruroken_movie

『龍馬伝』の第1話を見た時の衝撃は、忘れられない。
埃まみれの袴、ほつれまくった総髪、日に焼けた肌、
ああ、幕末の志士はかくありなん、と
長年焦がれ続けたビジョンが目の前に現れた気がした。

中でも魅了されたのが、佐藤健演じる岡田以蔵。
もともと以蔵は好きな人物なのだが、
そうか、これだったんだ、と思えた。

武市半平太に身も心もすべて捧げて仕えながら
「理もないくせに」と蔑まれ、
「儂は難しいことはわからんきに」と
寂しそうに微笑む岡田”佐藤健”以蔵は、
触るれば斬れる鋭さと、常に死の淵にある儚さを併せ持ち、
その薄汚れた出で立ちさえもまるごと、
なんとも魅力的であった。

最初に配役を知った時は、
可愛らしすぎるのでは?と思ったのだが、
今や、岡田以蔵は佐藤健以外考えられないと思っている。

幕末好きでありながら、
あれだけ一世を風靡した『るろうに剣心』については
ほとんど知らなかったのだが、
佐藤健主演で映画化されると聞いて、至極納得した。
「人斬り」でありながら「細身で童顔」の儚げな元志士。
岡田以蔵に重なるその人物を、あの佐藤健が演じる。
しかも、監督は『龍馬伝』の大友啓史。
これは見るしか無い、ということで
珍しく先行上映に行ってきた。

幕は鳥羽伏見の戦いに開ける。
戦闘シーンの迫力はまぁ書くまでもなく(私には過多に感じられたけど)
その荒涼とした戦場にすっと立つ佐藤健の姿は
「人斬り抜刀斎」などという物々しい名にはとても似つかわしくない可憐さ。
倒幕軍が錦の御旗を手にしたことで、
「終わった」と刀を捨てるその動作だけで、
今までの苦悩を全て表現し、物語の本筋へと誘う。

ストーリーは、幕末に「人斬り」として名を馳せた緋村剣心が
明治10年代、逆刃刀なる反りと刀背が逆になった人を斬れぬ刀を下げ、
自分の身近な人を守っていくうちに巨悪を倒す、という
シンプルなものだが、それを補って余りあるキャラクターの魅力が溢れている。

くわえ煙草で、刀を振り回す江口洋介演じる斎藤一は
そのヤサグレ感が、実に敗戦の将、新選組三番隊長らしく、
明治になって警察官になった後にも、その匂いが上手く残っていて
影の主役と呼ばれるのも納得の佇まいだ。

剣心の右腕となる喧嘩屋相楽左之助は青木崇高。
『龍馬伝』の後藤象二郎でもあるが、私にとっては
モジャモジャ頭の落語家草々さん、である青木くんは
今回もとてもワイルドな役回りである。
胸中に闇を抱える剣心とは対照的な
晴れた夏空のようにスカッとした気性が、
見る人に安心感を与えてくれる。

剣心&左之助が立ち向かうは、
「抜刀斎」の名を名乗り惨殺を重ねる鵜堂刃衛役は吉川晃司。
この人の狂気が映画をもり立てたのは言うまでもない。
とにかく本気で恐い。
眼力で妖術をかける役柄なのだが、その眼の力が尋常ではない。
刀が血を欲しがっている、という台詞の通り
人を殺すことを楽しんでいる様子は、
胸が悪くなるほどに真に迫る。
青木くんもだが、やっぱりタッパがあるのは、大きい。

鵜堂とはまた全く別の不快感を感じさせるのが
香川照之演じる武田観柳。
まずは役名に苦笑。
新選組好きなら誰もが「ああ、惣三郎・・・」と思ったはず(笑)
一般的には、『御法度』な人かな。
まぁ、もちろん、武田観柳斎は幕末に切腹しているので
名前にイメージを借りただけだろうが
綺麗に切りそろえた妙な髪型といい、
拝金主義を絵に描いたような言動といい、
絵に描いたような悪役。
香川さんはやっぱり抜群の存在感だ。

そして、何より、やっぱり佐藤健。
細身の体に赤い着物を着崩し、長い茶髪をゆるく結わえて
実に迅速に動く。
動きもすごいのだけど、何よりも表情。
健くんは目がいいと思っていたのだが、
今回、口元の演技に魅了された。
ほんの少し口角を上げると、華奢な顎が強調された
なんとも淋しげな笑顔になる。
原作特有の「〜ござる」や「おろ?」というような
実写では白々しいだろうと思われるような台詞回しさえ
なんだか馴染んでしまうのだからすごい。

いちばん素晴らしかったのは、二度と人を殺めないという決意を
覆した瞬間の狂気をはらんだ表情。
その一瞬の変化に息を呑む。
あの瞬間を大スクリーンで見るだけでも価値がある。

大方、合格点だと思うが、難を言うならば・・・
薫の魅力が感じられなかったこと。
剣心が何故そこまでして薫を守りたいのかが
残念ながら伝わってこない。そこが痛い。
薫が蒼井優ちゃんのほうがよかったんじゃないだろうか・・・・
近年の若い俳優さんは、すごい人が多いけど
女優さんが追いついてない感じが否めない。
20代前半の実力派女優がほしいなぁ。
個人的には福田麻由子ちゃんに期待している。

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雅俗共賞〜最近観た映画〜

  • 真珠の耳飾りの少女
    :
    光の変化を感じ取るものと、そうでないもの。それを人々は「芸術を解するか否か」と表現するのだけど要は感性の問題。美とか快とかいうものの一致こそが人を理解する根本を成すのだと思った。映像がもの凄くきれい。 (★★★)

音吐朗朗〜最近聴く音楽〜

  • 雪月花
    YUMING: WINGS OF WINTER,SHADES OF SUMMER 
     時に、出会いは偶然。4年も前に発売されたこのアルバムを、今日、このタイミングで初めて聴いたのも、偶然。十代の頃から、ユーミンの曲の「やさしさに包まれ」て、歌詞の鋭さに突かれて、何度も窮地を切り抜けてきた。今回も、きっと背中を押してくれるね。どんな状態になっても、私らしく、凛といること。そうきっと「悲しみにも時は流れ 海へと注いでいく」のだから。 (★★★★★)
  • 『愛と欲望の日々』&『Lonely Woman』
    サザンオールスターズ:
    『大奥』のようなドラマを軽やかにするのはサザンしかいないのかも。女の情念なんてハレルヤ!ってなもんかな。きらびやかなジャパネスク調のサザン(世は万葉あたりね)、実はかなり好き(^-^)『Lonely Woman』は秋冬のサザン。実はサザンは全天候型なのよ(笑)(桑田さんは雨男だけど) (★★★★)
  • 乙女ノックアウトナイト
    比屋定 篤子: ひやじょう
    久々発売の4thアルバムのお気に入りの曲。もう大分前からライヴでは歌われていたけど、毎回このテンポにくらくらでした(^-^)レコード会社の人からこの題名は・・・と言われたらしいけど、この題名あってこそ、だと思う。オザケンの『東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディーブロー』を思わせますです。 (★★★★)
  • ミモザ
    ゴスペラーズ:
    最近、どれを聴いても同じに聴こえる(爆)新しい刺激が欲しいよぉ。でも、サビの黒ポンの声は良いね。あとCMの唐沢くんもね。 (★★)

錦心繍口〜最近読んだ本〜

  • J・K・ローリング: ハリーポッターと秘密の部屋
    ハリーポッターシリーズは、話題になってすぐに1作目を読んだのだけど、正直、あまり興味が持てず、そのままにしておいた。が、最近、生徒と面接の練習をしている時に「教育学部に行きたいと思ったのは、ハリーポッターシリーズのダンブルドア校長先生の影響があります」というのを聞いて、改めて読んでみようと思った。この巻でも、自分がスリザリンと関係深いのではないかと悩むハリーに、「大切なのは、どう生まれたではなく、何を選ぶかだ」と助言するところがいちばん心に染みた。なるほど、教育指南書として読むハリーポッターもありだな、とシリーズ読破を試みている。それにしてもロックハートは、ひどすぎる教師だ(笑)
  • 竹田 青嗣: 「自分」を生きるための思想入門
    思想とは、社会的には人間に「正しいこと」を教えるものではなく、社会の中で絶えず「より合理的な関係」を作り出していくための“技術”であり、実存的には、個々の人間が、自分の生全体から「より大きいエロス(生きる喜び)」を引き出すための有効な“技術”であるという主張には、目から鱗が落ちた。自分が目指す生き方のために、様々な思想家の思想をどう理解し、どう選び取るか。哲学とはかくも実用的なのかと感動した。さて、私は、何をえらべばいいのか。それこそ、自分でしか決められない実存的問題なのである。 (★★★★)
  • 鈴木 真砂女 ・黛 まどか : 恋がすべて
    新旧女流俳人対談集。鈴木 真砂女という名前は知っていたが、こんなにも壮絶な恋をした人だったとは・・・その激しさと、強さと、美しさに号泣。魂が惹かれあうというのは、きっとこういうことを言うのだろうな。そんな巡り会いがひとつあれば、人はしあわせなのだと思う。黛さんも、そういう恋が出来るといいですね(笑) (★★★★)
  • 小谷野 敦: モテない男
    ものすごく面白くて、旅行中に二日で読み終えて、友人に押し付けてきた(笑)「恨み言」的な体裁を取りながら、しっかり分析されているところが流石。「恋愛はしなくても生きていける」と提唱したいけど出来ないジレンマが面白かった。(なんて言ったら怒られるかも)私はやっぱり本居宣長派の恋愛至上主義です(^^; (★★★★)
  • 養老 孟司: バカの壁
    今更ですが(笑)これって、ベストセラーなんだよね?一昨年、日本でいちばん読まれた作品なんだよね?こういう「もっともなこと」の溢れた本がそんなに売れてるのに、こんなにどうしようもない社会なのは何故なんだろう?(^^;「個性」についての考え方など、とてもわかりやすくて的確だと思いました。 (★★★★)
  • 瀬尾 まいこ: 図書館の神様
    文学音痴のでもしか国語教師が主人公。結構いるんだよね、実は(爆)私、もの凄く苦手なんだけど(爆)でも、まぁ、現代的には響きやすい話なのかもしれない。これをきっかけに漱石や周五郎を読む人が出れば、それはそれで良いのでしょう(^^; (★★★)
  • 小谷野 敦: 性と愛の日本語講座
    近現代文学における性愛に関係する言葉を、まじめに調べた一冊。下世話に思える言葉であろうと、いくつもの出典に当たって読み解いて行く作業はまさに国文学。大学でやってたことを思い出して楽しかった(^-^) (★★★★)

気韻生動〜最近観た舞台〜

  • Dr.TV
    福澤一座:
    福澤一座の第二回公演。言葉とテレビにこだわったこの作品群は、これからも小さなエピソードを繋いでいく形なのかな?正直言って、去年の方が面白かったなぁ(^-^;)しかし、森圭介アナはやっぱり好み(^^;一瞬「畑中くん?」と思う部分があって、やっぱり好きなタイプが似ていることが判明。結局ショタコンか(爆) (★★★)
  • SHIROH
    劇団☆新感線:
    歌うような台詞、とよく言うが、歌がきちんと台詞になっていることに感動。上川さんはとても歌が上手いと言う訳ではないのだが、すごくまっすぐに体に染みてくるのだ。『マイ・フェア・レディ』の レックス・ハリスンみたい。もう一人のシロウ、中川くんはもの凄く歌がうまかった。そして、ロック。それから迫力の群舞。すごい。少しは見習え<『クラ○ディア』(爆) (★★★★)
  • 『スキップ』
    演劇集団キャラメルボックス: タイムトラベルシアターVol.1
    都合三回鑑賞。一度目は現在の自分に重ね合わせて観てしまって号泣。二度目は少し冷静になり、自分が頭の中でだいぶ補って見ていること気付く。それでも、告白されると泣いてしまう(;_;)3度目の千秋楽は、坂口さんの熱演にまた引き込まれ、クライマックスでやっぱり涙を禁じ得ない。とにかくさわやかに泣けた。演劇としての構成の問題などはあるのだろうけど、小説も含めて十二分に『スキップ』の世界を堪能できたことに感謝。 (★★★★)
  • 沖縄ラーメンズライヴ
    ラーメンズ:
    『沖縄ラーメンズライヴ  サーターアンダギーは見かけのシンプルさの割に名前が長過ぎ  A&Wは貴方と私の略。  ラーメンズにとって沖縄が楽園になるかどうかは客次第』 やっぱり頭の良い人の考えることは面白い。 (★★★★)
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